MAGAZINE02

航空宇宙工学科1期生,学科の歴史を振り返る!!~その1 学生時代編~

村松旦典先生
日本大学理工学部 航空宇宙工学科 教授

ウェブマガジンNo.02では,航空宇宙工学科1期生であり,現在,航空宇宙工学科で教鞭を執っていらっしゃる村松旦典先生に学科について語っていただきます.特に今回は村松先生が過ごされた学生時代について当時の学科の様子を語っていただきました.

本日はお忙しいところ,お時間をいただきありがとうございます.
今回は航空宇宙工学科1期生でもある村松先生の学生時代についてお話を伺いたいと思います.はじめに,航空宇宙工学科に進んだきっかけを教えてください.

小中学生の頃から航空機や宇宙機を作る技術者になりたいと考えていて,高校進学時には,航空宇宙工学を学べる大学は関東では東大,日大,東海大くらいしか知りませんでした.日大の機械工学科には人力飛行機で世界記録を達成した木村秀政先生や佐貫亦男先生がいて,機械工学科でも航空宇宙工学が学べるのなら,日大の付属高校に進学するのもありかなと思い,父親の勧めもあって日大豊山高校に進学しました.

高校生になり,1時間ほどの電車通学の間,ブルーバックス (※1)をよく読んでいたのですが,そこで「恒星間宇宙旅行」が目に留まり,恒星間推進システムをやりたいと思うようになりました.大学では物理学科か航空宇宙工学科のどちらに進学するかを悩みましたが,物理学科に行く自信はなかったので,航空宇宙工学科に進学しました.当時はオープンキャンパスやホームページは無く,大学の情報は本屋に積んであるパンフレットから得ていました.

その当時,航空宇宙工学科の著名な先生方はご存知でしたか?

木村先生や佐貫先生の名前は知っていました.木村先生は人力飛行機の世界記録 (※2)を作ったという話が当時はすごいニュースになっていましたし,他にも羽田でボーイング727が墜落した時の事故調査委員会の委員長を務めたことでも有名でした (※3).佐貫先生は多数の啓蒙書 (※4)を書いていましたし,同じく事故調の委員長も務めていました.

今と比較して当時の大学や学生生活のことについて教えてください.

当時は浪人して大学に入るのが普通の時代でした.6割くらいが浪人生だったかと思います.また,女性は四年制大学に進学すると就職がかなり難しかった.その影響もあってか私の同期には女子学生は1人もいませんでした.大学院の航空宇宙工学専攻への進学者は,私の1年上と2年上はそれぞれ5名ずつでした.M2には,現在静岡大学教授の山極さんがいました.私の大学院の同期は他から来た3名を加えて12名で,同期で見ると学部で卒業した人の方が出世しています (笑).
当時の学科の教室主任であった横井錬三先生の勧めで(騙されて),2年生の時に日本航空宇宙学会の会員になりました.手続等は学科の事務室で行い,同級生の半分ぐらいが会員になっていたような気がします.

私は,サークル活動はしていませんでしたが,サークルの勧誘をやってみたくてバレー部の勧誘活動を手伝ったり,部員数が足りないということで宇宙航空研究会に名前を貸したりしていました (笑).航空研究会も当時からありましたが今とは活動内容が違って,例えば簡易的な風洞を作って翼型の風洞実験を行うといった航空に関する学術的な活動に取り組んでいて,鳥人間の活動をしている人は少なかったです.

大学の授業はどうでしたか?

木村先生には,2年生の時に航空工学 (今の航空力学)という授業を教えていただきました.ちなみにテキストは「Air world」という雑誌のコピーを製本したものを使っていました.その雑誌の記事は牧野光雄先生が書いたもので,現在では,「航空力学の基礎」という本になっています.木村先生の授業は分かりやすくて聞きやすい授業だったのですが,試験前に勉強をすると,なぜあの時は理解できたのだろうと思うことが多々あり,うまく丸め込まれながら教えられていたのだろうと思います.
今でこそ私は流体系の教員ですが,当時は流体力学が一番苦手でした.流体力学Ⅰは河村龍馬先生が担当していたのですが,授業は全然分からなくて困りました.河村先生は東大の宇宙航空研究所の所長を退職して日大に来たのですが,大学院生の指導などはしてきたけど学部生の授業は君たちが初めてですと言って,初回の授業を始めたことを覚えています.流体力学Ⅱは牧野先生が担当でしたが,試験問題は解けても本質が分かった気がしませんでした.

印象に残っている先生や授業はありますか?

例えば,柚原直弘先生の授業は全然例題を解かずに考え方の概念しか話しませんでした.そうなると試験でどんな問題が出てくるか分からないので,私の試験対策は前日にゆっくり寝て頭を休めることで,試験時間中の閃きに頼っていました.工業力学Ⅲの試験では,衛星が軌道上でパドルを展開した時の軌道の変化を求めるような問題を出されたことを覚えています.

他にも声が小さくて前から2, 3列目までしか聞こえず,椅子に座りながら板書をする,航空機構造の第一人者として知られた池田健先生や,工業英語という科目名だけど佐貫先生が夏休み中に旅先で学んできた現地語(東欧の言葉だったと思います)の紹介をする授業がありました.

私たち学生にとって,大変だった科目は2年次の航空工学実験Ⅰと3年次の航空機設計でした.実験は現在と同じく火曜日の午後にありましたが,報告書の提出が二日後の木曜日の朝9時前まででした.火曜の夜は坪井町の友人の下宿に泊まってグループのみんなで実験データの整理をしていました.噓のような話しですが,私たちの成績表には2年生の実験の欄はなく,年間科目の設計製図と一緒に成績がつきました.筆記試験まであって,単位数は両方修得して2単位でした.

航空機設計は土曜日の2,3時限目に設置されていましたが,最終課題の主翼の設計は授業時間だけでは全然足りずに,最後はかなり徹夜に近い状態が続き体力に自信がつきました.私はフラッターを考慮すると何度計算し直してもうまくいかず,重量の条件を満たさないまま図面にすることにしたので,図面書きのため1週間ほど1時間の仮眠だけで過ごしました.この科目は必修科目ではありませんでしたが,ほとんどの同級生が受講していました.

大学院に進んだきっかけや研究について教えてください.

研究は推進工学をやりたかったのですが,推進をやる上で一番重要だと思っていた流体力学が一番苦手で,悩んでいました.そのような話を内燃機関の大家であった粟野誠一先生に相談したところ,推進機関は流体に限らず制御や材料など様々な分野が関わっているから好きなことをやればいい,というアドバイスをいただき,これからはコンピュータと制御工学の時代だと考え,嶋田研で飛行制御システムの研究を卒研から行いました.制御工学は非常に面白いと思うようになり,将来は太陽発電衛星のような大規模宇宙構造物の軌道及び姿勢制御をやってみたいと思うようになっていました.
学部生のときには漠然とNASDA (※5)に行きたいと思っていたのですが,採用条件ができれば博士,最低でも修士という感じでした.それから,私は友人達ほど社会でエンジニアとしてやっていく自信もなくて,社会に出るのが不安だったというのも理由の1つです.

当時流行っていたものは?

学科内で流行っていたのは,車と単車 (※6)ですね.誰がどこでコケたとかぶつけたとか,誰の運転は危ないとかの話しで盛り上がっていました (笑).私も父親の使い古しの「日産バイオレット」という車を時々運転していました.大学には単気筒の250CCの単車で通学していました.当時は都内から単車で通学する学生もいて,お金がある学生は駐車場を借りて車で来ていました.

また,山名先生の飛行機設計論やSuttonのElements of Rocket Propulsionのような授業では使っていない本で勉強している学生もいて,休み時間にはそれぞれが関心のある航空宇宙工学の話題について,議論などもしていました.

その他に当時の思い出やエピソードはありますか?

当時の船橋キャンパスは理工系習志野校舎という名前で,理工学部と短大に加えて,生産工学部も一緒で,薬学部も理工学部薬学科として理工学部に属していました.また,現在の3号館と4号館は主に生産工学部が使っていました.3号館の地下は旋盤,フライス盤や形削り盤が置かれていて,ここで機械系の学生の工作実習が行われていました.10号館と11号館,学食のプラザ習志野は,私たちの入学に合わせてできた施設です.

当時は破傷風 (※7)の心配がまだ少しだけあったり,3号館の前の植込みとか,キャンパス内のいたるところにマムシ注意という立看板がありました.あとは学生が坪井町にたくさん住んでいたので,格納庫 (今のテクノ)の裏の塀に人が通れるくらいの獣道がありました.他にも11号館の裏辺りに巖翠堂への抜け道(近道)があって,管財課が閉じたりしていましたが,気づくとまた開いているので利用していました (笑).

本日は貴重なお話ありがとうございました.次回は教員になってからの話を聞かせていただきます.

聞き手日本大学理工学部航空宇宙工学科広報ワーキンググループ

  • ※1
    ブルーバックス:講談社が出版している一般向け科学シリーズ本.高校時代に50冊ぐらい読んだと思います.最初に読んだのは,松本零士が挿絵を描いていた「相対論的宇宙論」で,よく理解できませんでした.
  • ※2
    ストークB号による世界記録:木村先生は当時日本では前例の無い人力飛行機の製作に挑戦し,1966年に「リネット号」で日本初の人力飛行に成功,1977年には「ストークB号」で,飛行距離2,093メートル,滞空時間4分27秒80の世界記録を樹立しました.
  • ※3
    全日空羽田沖墜落事故:1966年羽田沖で起きたボーイング727-100型機の墜落事故.ボーイング727型機の国内導入に尽力した木村先生が事故調査委員の委員長となった.
  • ※4
    佐貫先生の啓蒙書:代表的な著書は,「ヒコーキの心」,「飛べヒコーキ」,「飛行機の再発見」,「ジャンボジェットはどう飛ぶか」,など.「とぶ-引力とのたたかい」で第17回日本エッセイスト・クラブ賞受賞.佐貫先生は気象庁時代の上司であった新田次郎(藤原寛人)の影響で,本を書くようになったと話していました.
  • ※5
    NASDA:当時,国の宇宙開発の中枢的実施機関だった宇宙開発事業団のことで,2003年に宇宙科学研究所,航空宇宙技術研究所,宇宙開発事業団の3機関が統合してJAXAとなった.
  • ※6
    単車:「日本語語感の辞典」(岩波書店)によれば,単車は「『オートバイ』をさして一時期盛んに使われ、今ではやや古い感じになりかけている漢語」.
  • ※7
    破傷風:傷口に破傷風菌が入り込むことで起こす感染症で,かかった場合に亡くなる割合が非常に高い危険な病気だった.